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第6回 新井田貴則さん

「輝く人」インタビュー第6回では、フェスティバル等のイベント制作をされている、新井田貴則さんにお話を伺った。

 

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1.幼少期はどのように過ごしましたか?

 

幼い頃は、下町の文化が残っている町で育ちました。周りには男らしい市場のおじさんたちが多くいて、そんなおじさんたちや愉快な母親のおかげで、人に対してコミュニケーションをとることや、人と一緒にいることが好きになりました。人間同士が本音でぶつかり合って、「こうゆうところは嫌い」とかも含めて、喧嘩ができたりとか、そうゆう一面って、(人と人とが)繋がるのに大切な距離感だと思っています。

 

2.夢はありましたか?

 

全然ないですね。そのとき瞬間、瞬間ではありましたけど。人生はやっぱり、海外に、オーストラリアに行ったことで大きく変わりましたね。初めて海外に行ってみようと思ったのが、大学生の二十歳の時でした。一人で、何も決めずに、お金だけ握りしめてインドネシアに行って。自分で宿を決めて、レンタカーを借りて、友達ができて、助けられたり物を盗まれたり、喧嘩をしたり。自分ひとりで過ごしたその一カ月は、自信になりました。そして、今度は一カ月だけじゃなくて、本当にそこに住んで、文化を知って、その人たちと交流したいなと思って、大学卒業までお金貯めて、卒業してからオーストラリアに行った、っていう。

 

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3.オーストラリアに行ったことで、どのような変化がありましたか?

 

生きることに対して、「なぜ自分が生きているのか」という疑問を持ち、人との出会いに対して、一期一会を大切に、感謝するようになったと思います。

当時(オーストラリアに行く前)の自分は、ものごとをちゃんと見えていなかったと思います。東京ってやっぱり、なんでもレールを引きたがって、「こうゆうものだ」っていうのがあるから、それにのっかちゃっていましたね。みんなが良いというものが良い、となっていたし、それに特に疑問を持ったりはしていなかったんです。

 

4.今のお仕事に通じているような経験はありますか?

 

今の仕事は、イベントやフェスティバルの制作をしていて、フェスティバルのインフラづくり、空間づくりをしている会社です。

昔もんじゃ屋さんでアルバイトをしていたんですけど、そこでお客さんとコミュニケーションをとっていたのは、自分にとって良かったと思います。観光地なんで、来るお客さんはみんな幸せなんですよね。絶対楽しみに来ていて、みんな笑顔でいる。みんな楽しもうと思ってきていて、僕はそうゆう雰囲気が大好きで、今もそういう仕事をしているのと、繋がっていると思います。日常と少し違う空気感で、より楽しんでリラックスして、自分の時間を楽しんでもらいたい。この想いは、今の仕事の価値観にも繋がっていると思います。

 

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5.大切にしている価値観はなんですか?

 

バランス感を大切にしています。イベントをやりたいと言ってくれる人たちの「やりたいこと」が円盤の色や形となるベース。そこに、僕の主観でバランスをとっていく感じです。装飾は、それができる人に、僕が頼む側。「でも、導線ではこうだからさ」とか言いながら、飲食の方とかとも話をして、自分は真ん中に立ってバランスをとっていく感じです。

時にはなにかを犠牲にしないといけないこともあるんですけど、最終的には僕の主観でしか図るしかないこともあって、それがバランスの軸になっています。

 

6.今、またオーストラリアに住むことにしたきっかけは何ですか?

 

今の会社の前社長の死をきっかけに、急に自分が全部をやらなきゃいけないという立場になって、必死に取り組んでいたら、子供もできて、怒涛の6年間がありました。母の死や、子供の誕生。その後震災があって、それが人生を考え直すきっかけになったんです。日本の在り方を考えたとき、自分は少数派で。それを押し通すことも、もちろん大事だけど、それで人に迷惑をかけるなら、自制していくべきだと僕は思っていて。そこで、自分の中で一つ区切りがついて、「よし、日本を出よう」と思えました。

 

仕事をすると、社会の仕組みが見えてくるようになります。僕はその仕組みを追求していくのがすきで、「こうゆう風に成り立っているんだ」と気づいたり、その負の部分も見えてきたりする。結婚をして、自分で選択することや、子供を持って責任感が強まりましたが、仕事をしていく上で、決断力が一番大切だと思うんです。だけど、すぐ決めればいいんじゃなくて、「なぜそう決めたのか」という理由を出せることが大事だと思います。今選んだチョイスは間違っていないと、家族で思えています。

 

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7.新井田さんにとって、「生きる」とは?

 

「どうやったら輝けるのかな」と考えたら、それは、自分が好きなことを精一杯やることだと思いました。怠惰な自分ももちろんいるけれど、それを受けいれることもまた、輝く秘訣だと思う。だから、生きるって「自然にいること」かなって思います。僕、120歳まで生きようと思っているんですけど(笑)、人間はベストコンディションで生きると120歳まで生きるって聞いて。それって、ストレスなく気持ちよくいられるってことだと思うんです。地球は地球で生きていて、こっちはこっちで生きていて、アリンコや石ころも生きていて、そういうのが全部合わさって「生きる」ってことだと思います。

 

あと、人との比較は意味がないと思う。あの人がすごいと思うのは、自分と比べなくてもすごいから、比較はしないです。分析するのは好きですが、「なぜ」を考えた先はいつもシンプルで、「生きているんだから気持ちよく生きよう」っていう答えにたどり着きます。

 

どうせ生きるなら、出会った人には喜んでもらいたいし、なるべく人に迷惑をかけないようにしたいし、自分が生きていることで、何か一つでもいいことができれば、それで世の中が変わったりしたら嬉しいなと思います。

第5回 羽仁カンタさん

プロローグ

第5回の輝く人インタビューは、「ごみゼロナビゲーション」などで知られるNPO、アイプレッジの代表理事の羽仁カンタさんにお話を伺った。羽仁さんの活動には、常に「ワカモノ」の存在がある。目の前の「ワカモノ」、日本の「ワカモノ」の人生を真剣に語る姿から、たくさんの「ワカモノ」へのメッセージが込められていた。

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1.「『自立』を教えた母」

 

―どんな幼少時代・青春時代を過ごされましたか?

 

僕はアメリカ人の父、日本人の母の間に生まれたハーフなんだけど、当時はマイペースなおとなしい子だったみたい。最近、お袋と幼馴染だったっていう73歳のおじいちゃんと電話で話したら、お袋は僕を自立させようとしてたよって言われたんだ。僕一人っ子で…小学校の時、学校を休もうと思って、「お母さん、今日観たい映画が最終日だから、学校休んで観に行っていい?」ってお袋に訊くと、お袋は「いいわよ、自分で電話しなさい」って言うんだ。それで、「羽仁カンタですけど、今日お母さん風邪ひいて寝込んでいて…看 病するので学校休みます」「まぁ偉いわね、羽仁くんはお母さんのこと考えて」「はい、頑張ります」って電話して、そのまま映画観に行ってたんだよね。親が そんなことを仕込んでたよ(笑)。大学で留学していた時は、なるべく日本人の友達つくらないようにしてた。バリバリやってた自覚はなかったけど、「親が自 立させてくれていたから、おとなしかった子がアメリカでやりたいこと見つけて帰ってこれたんだ」って言われる。

 

最 近のワカモノたちは、社会的なルールに対して受け身だよね。「自分で考えて、挑戦してみる」っていうことをしないから、結局、既存のルールに対して「どう して?」っていう疑問しか生まれない。そう思ってる人はまだ良いのかもね。そのルールがあって当たり前で、制約されていることに疑問すら感じない人もいる んだろうな。そういう意味で、国民全体が、憲法9条が変わろうとしているのに何も言わないことも同じ。ちょっと前まで消費税もなかったのに。自分の買ったものの0.8割 が税金としてとられるのに文句も言わない。原発もそう。実際、自分の就職とかにものすごく関係しているのにね。ワカモノはこぞって日本にお金が落ちない外 国資本のお店で買い物しながら、自分の就職口がないって言う。もし日本で働きたいなら、日本製品を買わないと。日本経済の空洞化につながるような消費傾向 にさせられている。必ずしも、ワカモノが元々悪いかって言われたらそうは思わないよ。でも、自分の頭で考えないで消費させられている事に気付かないのは問 題。流行に流されてるのもよくないけど、「あれを買え、これを買え」っていうような流れが毎日のようにくるわけよ。今年はこの色の洋服が流行る、こういう のが似合うとか勧められて、全然自分で選ばせてくれない。

 

―ご自分で考えるアイデンティティは何ですか?

 

僕は14,5才ぐらいからアイデンティティについて考え始めてた。3歳 で両親が離婚しちゃったから、父のことだったり、何で離婚したのかとか、当時から考えてた。担当の弁護士を訪ねて行ったり。年一回、僕に会いに父がアメリ カから帰ってきた時には、「なんで別れちゃったの?」って訊いてた。自分は日本人なのかアメリカ人なのか、血は日本とアメリカの半分半分で…アメリカって言ってもユダヤで、父はイスラエルで生まれた米国への移民で…と か。「じゃあ、今度はユダヤってなんだろう」って勉強してみたり。自分のことを考えるのに、親のこと、ハーフであることを考えるのは外せないことだった。 結局、あんまりアメリカ人だっていう認識はないけど、日本人だともそんなに強く思ってない。日本にベースを置いて暮らしているけど、結局何人かって言われ るとすごく悩む。だから25才からは、地球人ってことにしたん だよね。大学生の時に、アジアを放浪旅行して、「何人ですか」って言われる度に、「あなたと同じ人間で地球に住んでます」って答えてた。日本人だと言って も、親父はアメリカ人で今はアメリカの大学に行ってて、ちょっと複雑。だから、「何人でもいいじゃん」って思ってきたんだよね、だんだん。だったら、「地 球人として、国に捉われないで、生きていこう」って思った。中身・興味関心をつくることの方がずーっと大事。ファッションでも同様。日本人って形から入っ ちゃう人が多い。出来上がった料理よりも素材とか中身の方が大事なのに。ファッションでもあなたに合う色を着ればいいのに、みんな「今年はこれが流行って る」って情報に左右されて消費させられていると思ったんだ。そういう商業主義の裏側を全然日本人が学ばないのはなんなんだろうな。

 

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2.「ワカモノの成長を見たい」

 

―仕事でやりがいを感じるのはいつですか?

 

日々感じているけど、やっぱりワカモノが成長したときかな。94年から始めた野外フェスの環境対策活動「ごみゼロナビゲーション」には、年間約1500人のボランティアが集まって、40人くらいの大学生が年間通してボランティアコーディネイターとして活動している。だいたい3年から5年在籍するこのコーディネイターはボランティアの中で中心的な存在で“コアスタッフ”(英語で中心)、さらにその中心にいるリーダーを“コアコア”と呼んでいる。職員4名を入れて10名くらい。“コアコア”を2年 やる中で、経験も積んで、活動内容も覚えた人が職員になることもある。メインは「ごみゼロナビゲーション」っていうフェスの環境対策。そのプログラムの流 れにワカモノの参加する場があって、自己実現しつつ、提案やディスカッション、失敗していく中で有機的な関係を築いてほしいと思ってるんだよね。今は若者 の人口が減っているし、弱くもなっている。自分の頭で考える力も弱くなって、探求心がなくなっていると思う。騙されて生きているというか、テレビCMの見すぎというか。もっと自分に挑戦をしてもらえるように、ツアー組んだり企画したり、いろんなことに取り組んでる。まぁやってみなければ分からないからね。本を読むだけでは全然ダメで、やってみたり、発言してみたり、失敗してみたり…そうすることで人は、ワカモノは成長すると思うんだ。

この20年くらいワカモノとの“サシ話”っていうのをやってる。二人(サシ)で話す時間をワカモノととるようにしているんだ。40人いる若いスタッフたちと最低年に1〜2回 ぐらい。僕がそういうオーラを持っているのか分からないけど、その人が今まで他人に話してこなかった挫折体験や辛かったこととかを僕には言っちゃうみたい なんだよね。実は親に殴られてる、男性不信なんですって恋愛話とかも。そんな何かを抱えているワカモノたちが成長していく…何をもって成長とするかは難しいけど、「段取りを踏めるようになる」とか、「目的を持って、周りに流されずに自分の考えや主張を持てるようになる」姿を見ると、やっぱり嬉しい。

 

 

―最大のピンチはありますか?

 

ピンチとか全然感じないんだよね(笑)。

 

―他の人から言われるけど、自分はあんまり思わなかった…そんなタイプですか?

 

あぁ、 思わないタイプ。全然思わない。「すごいことをやってますね」とか言われるけど、「いや全然!僕はやりたいことやってるだけだ!」って答えているよ。「今 日はラーメン食いたかったらラーメン食いに行った、お前はラーメン食ったらすごいのかよ」って逆に説教しちゃうぐらい(笑)。

 

僕 なんか、ワカモノたちがトラブルに見舞われている姿を見るのが楽しい。失敗したり、葛藤したりした方がその人自身が成長できる。でも、やっぱり「できない よ、えーん」ってなった人には、「大丈夫だよ、お前はできるよ」ってサポートして成長させる。目の前のチームのワカモノに時間を割きすぎていて、良くない かなとも思うけど。やっぱり、自分のチームのメンバーに僕は気持ちが向いちゃうんだよね。世間に発信するメッセージが素晴らしくても、自分のチームのワカ モノのことを導けないのならそれは本末転倒だと思う。

 

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3.「ありのままで」

 

―これから「生きる」ビジョンはありますか?

 

そういうのないね。A SEED JAPANを立ち上げて日本に帰ってきてから、あんまり先を見ないタイプになった。今の時代と複合的な中で自分って生きていると思 うんだけど、長期計画とか決めちゃうとそれに沿っちゃうと思う。今の時代をしっかり見て、いつも軌道修正できる状態が健全だと、僕は思う。意見を変えるこ とは良いこと。「間違っていた時に謝れるのはすごいね」って言われたりするんだけど、僕から見れば当たり前なんだ。「間違ってたから謝るって普通じゃ ん」って。

 

―これからチャレンジしたいことってあるんですか?

 

今の音楽フェスでの環境対策活動は20年 も続いていて、仲間からも信頼されて、ボランティアもいっぱい参加してくれる。そういう活動をもう一本二本つくりたいなって思っている。一つは、「東京で はくすぶっていて元気の出ないワカモノが、地方に行って、そこでその人も流行り、地域も活性化する」っていう事例をつくれないかなと。都会のワカモノに チャンスをあげたいんだ。世の中にはもっと楽しいことがたくさんあるのに、東京にいると、モノと情報がいっぱいあって、なかなか自分で選べない。やりたい ことがあるのにやらない人たちがいっぱいいる。でも、地方に行ったワカモノがなぜかすごく元気になっているってここ数年感じたんだよね。学生時代に2年ほ どうちのメンバーで活動していたワカモノで、東京で熱い想いをなかなか行動に移すことが出来なかった人が、たまたま北海道のごく小さいNPOに 就職したんだけど、すっごい元気になってた。田舎っていう場所が若者をものすごくウェルカムしてくれるみたいなんだよね。都会から田舎に若者が来てくれる だけでおじいちゃんもおばあちゃんもすごく喜んで、歓迎している。彼がやりたいって言ったことをしっかりやらせてくれるわけ。そこで15年1月に立ち上げたのが「プロジェクトアイターン」。今は、全国6カ所の受け入れ先があり、年に数回は当団体主催のツアーを組んだり、関心のあるワカモノが各自で訪問できるよう仕組みをつくっている。

 

もう一つは、 “ライフブビュッフェ”っていうのを2014年の秋からやっているんだ。34歳 以下の、大学生の身近な存在で、ちょっと面白いことをやっている人たちを紹介して、「旬な生き方をする人々」をビュッフェみたいにつまみ食いできるイベン トやフリーペーパー展開している。この企画を通して、「失敗してもいい、やりたいことに挑戦してみてもいいんだよ」っていうのを伝えたいと思ってる。会社 をやめて起業した人とか、学生時代にNPOか何かをやっていて 就職せずにそのままやっている人、企業の社員でありながら違うことにも挑戦している人とか、いろいろなパターンの人生を見せようと思っている。講義形式で 年に1回の大きなイベントを11月に、隔月でテーマを絞って小さなイベントを原宿で、年に4回は情報誌の発行をやっていく。ワカモノたちに冒険心を持っ て、日本の未来を、自分の未来を、希望を持って進んで創造してほしい。

 

「あ りのままの自分でいよう」、「みんな違って、みんなすばらしい」とかって僕がよく言う言葉。幼いころからよく親とかに言われていて、僕のポリシーになって る。自分を本当より大きく綺麗に見せようってするのは僕には大変。だから、誰も見下されたり、見下したりじゃなくて、誰とも対等に接し、共感の輪をもっと 作っていきたいんだ。

第4回 土屋萬佐子さん

プロローグ

 

第 四回輝く人インタビューは「とても面白い女性ですよ」と、紹介された土屋さん。

世界でのあらゆる問題と真剣に向き合っているかっこいい女性であると同時 に、とっても女性らしく、朗らかで、自由で、初対面で緊張していた私をとても和ませてくれる素敵な女性。

そんな魅力的な彼女は、どのようにして今までの人 生を辿ってきたのでしょうか。

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1「世界の感じ方」

 

 

-小さいころはどんな子でしたか?

 

どちらかというと外向き。家の中で何かをやっているというタイプではなく、とにかく外で走り回って いました。足も速かったし運動は全部好きでした。

でも先生に怒られるようなことはなく、その頃は成績も良かったので多少の事は何も言われなかったのかもし れません。

自分がやりたいと思ったことは、やらないと気がすまなかったから親も何も言わなかった。時代も時代だったので、男に生まれてきたらよかったとい つも思っていました。(笑)

 

その頃、将来はフランス語の同時通訳になりたいと思っていました。同時通訳の人を目にする機会があり、フランス語かっこいいなって。

でも結局、その後十年以上フランス語には触れなかったけれど(笑)

 

 

-どういう時期に西アフリカに出会ったんですか?

 

中学三年生の時、先生が「卒論(のようなレポート)を 自分でテーマを決めて書きなさい」と。

その頃私は姉がプレゼントしてくれた『ルーツ』というアレックス・ヘイリーが書いた奴隷貿易の話を読んで「差別」と いう事に対して強く意識する様になっていました。

だから、アメリカの中でアフリカ系の人達について書いたんですね。どうして人は差別するんだろう、と。私 関西の出身なんですが、その頃はまだ、以前同和地区と呼ばれていた地域を大人はみんな知っていて、うちの母は普段けっこうリベラルな人だったのに、「そこに入っちゃいけない、あそこの地区の子とは付き合っちゃいけない」と、暗に言われました。

学校にいれば友達だし同じように生活しているのに、それが凄く理 不尽な気がして心の中で反発していました。そういう、母の気持ちを感じれば感じる程、“じゃあ、その地区の子と付き合ってやる!”って。(笑)嫌 じゃないですか、理由もないのに。

中学の時に色んな差別問題に対する意識が動いている時期だったので、その頃からアフリカの歴史とかアフリカ系の社会に興 味を持っていたと思うんですよね。特に『ルーツ』の舞台として描かれていた西アフリカに強い印象を持ち、それが西アフリカとの出会いだったと思います。

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2「繋がってゆく」

 

 

-西アフリカと繋がるきっかけとなったものは?

 

小学生の頃からバトンをやっていて、踊るのがとても好きだったんです。

普段は近所の同級生の男の子 を引き連れて走り回ってたんですが、誰もいないと思ったらこっそり庭でひとりで踊っていたんですよ。バトンは大学くらいまで断続的に続けましたが、「何か ちょっと違うなー」と思っていました。ちゃんとダンスの基礎を学びたいと思いクラシックバレエを習い始めました。そんなある日アフリカの音楽に出会いま す。

そこで見つけた一枚のチラシがアフリカンダンスへの扉を開いてくれました。衝撃でしたよ。こんな風に踊っていいんだ!って。クラシックバレエの先生には内緒で毎週通っていました。小学生の頃のバトンからダンスが好きという気持ちはずっと続いてて、中学時代に読んだ本や身近な差別の現実や社会の理不尽な事への反発、同時に、それに関わる文化や世界観がダンスを中心に外へ外へと広がっていった感じです。それがアフリカであり、今の社会の構造への疑問でもあ り、人権への意識でもあり、ってところですかね。

 

-ダンスがアフリカと土屋さんを繋いだんですね。

 

アフリカンダンスのクラスで一緒に練習していた英語の先生と仲良くなったのですが、彼女からはアフ リカの文化をたくさん学びました。

当時、アフリカ音楽を毎日演奏している場所があり、そこで私にとっては未知の世界だったアフリカの生の情報を沢山学びま した。その中の一人がマリ人のギタリストでその人との出会いがマリに繋がっていくんですよ。そのミュージシャンのマネージメントの仕事を始め、レコーディ ングやヨーロッパツアーなどを経て、NGOを立ち上げました。

 

マリ人のミュージシャンの周りに来日の人が増えてきて、そういう人たちと仕事するにつれて、アフリ カには地球の問題が凝縮されていて、アフリカの問題は日本の問題、自分自身の問題だと思う様になりました。

でも、ダンスや太鼓を習っている人達で、彼らの 音楽と社会の状況との繋がりを気にする人は多くはありませんでした。だから、そういうことをきちんと知ってもらいたいな、と思っていたのです。素晴らしい ものを素晴らしいものとして紹介するのもすごく大切だけれども、素晴らしいだけじゃなくて、感動と共にその背景を知ってもらうと、色々な問題ももっと身近 に感じてもらえるんじゃないかと。

社会問題って深刻な取り上げ方をされますよね?飢餓とか病気とか紛争とか可哀想なイメージ。でも実際はそれだけではな く、そこでいきいきと生活している人々がいるわけです。そして、生活の中の文化としてダンスや音楽がある。こういうポジティブな切り口で社会の問題を多く の人達にきちんと知って欲しいなと思ったんですよ。

楽しくダンスしながら、そして、自分の感覚を大切にしながら、「ダンスや音楽はこういう所でこんなに素 敵な人達がこんな時にこんな風に踊ったり演奏したりするんだよ」ということを、特に小さい人たちへきちんと伝えていきたいと思っています。

アフリカのダン スはその場を共有する人達との調和を大切にします。お互いの存在を認め合い、踊り手と演奏者はダンスと音楽でコミュニケーションをとり、観客も含めた全員 がその場のハーモニーを創る構成員となります。こんな素敵な考え方はダンスをしない人たちにも是非シェアしたいです。

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3「生きる」

 

 

-そんな中で今までの最大のピンチは?

 

35歳 の時に働きすぎてストレスでガンの告知を受けました。

ずっと昼も夜も寝ないで徹夜の生活を続けていたので。こりゃいかんと思ってその時考えた事は、もうや りたいことだけをやろうということ。それから無理をしなくなりました。精神的なストレスというか、納得のできないことはやらない。でもちょっと迷うことっ てあるじゃないですか、受け入れるべきかどうかって、例えば、仕事の依頼があって、報酬はいいし、どうしようかな、と。

そういう時には、私はこれを本当に やりたいのかどうか、とまずは自分自身に問いかけます。その結果、やりたくないって思ったら報酬が良くても受けないっていう選択をします。もちろん、生活 をするためには気が進まなくてもしなければならない事は沢山あります。ただ、嫌々やってもそれはストレスにしかならない。経験に無駄な事はないんです。全 て蓄積されて繋がっていると思えばやりたい事に出会った時にすぐにそのチャンスを掴んだり、そのことに向き合える。失敗したらまたやり直せばいいと考え て。

 

今はお蔭様でガンは治りましたが、たぶんあれは、究極の警告だったと思っています。今でもガンだったという実感はあまりない。根っからのオプティミストなんです。(笑)

 

 

-これからチャレンジしたいことは?

 

今の目標は自分の体を作り直して子どもたちのための文化体験の場を再開すること。それからフランス語をもう一度やり直す事。自分では40歳 くらいから体力も記憶力も落ちる一方だと思ってたんです。でも細胞も神経も筋肉も、もちろん、脳細胞も刺激を与えて訓練すれば全部死ぬまで成長し続けるん ですって。それを聞いて、よし、作り直そうって思ったのです。ちょっと最近ボケボケしてたんですよ、もう下降するばかりだろうし、って。でもいやいやまだ 全然いけるぞ、って。脳も体も感性も、自分で限界をつくったらそこでストップ、ですから。もうすぐお腹割れてくるかも!(笑)

第3回 尾崎嘉洋さん

輝く人インタビュー第3回は、一般財団法人北海道国際交流センターで国際人材育成セクションリーダーを務める尾崎嘉洋さんにお話を伺った。

幼い頃はサッカーと空想が好きで、密かに冒険に憧れていたという尾崎さん。大学1年生の夏、人生に大きな変化が起こったようだ。

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1.「自分だからこそできること」

 

 

――将来について考えたのはいつ頃ですか?

 

 

「大学に入ってからですね。高校は、サッカーをやるか、音楽を聴くか、古着屋さんに行くか、彼女とデートするか、そんなことしか頭になくて(笑)大学では、授業が退屈で最初の半年くらいは授業に行かず、バイトしたり踊りにいったりしていました。

 

とある一年生の夏、踊りに行った帰りに家に始発で帰る時、たまたまハッと、「なんで俺ここにいるんだろう。なんで生きているんだろう。人生ってなんだろ う。」って自分に問いかけたら、全然わからなくて、止まらなくなってしまって。

おそらく心身共に疲れ果てていたんだと思います。

それから3か 月くらい毎日人生を悩み続けて、ずっと「暗闇」の中をさまよっていました。

そんな中、アウンサンスーチーさんの『自由』という本や、『ブレイブハート』と いう映画をはじめ様々な本や映画を観て、それぞれの土地でそれぞれの時代の人たちが、その人だからこそできることをして精いっぱい本気で生き抜いてきた、 ということに感動をして、当時1996年の日本で自分だからこそできることは何だろう、って自分事に置き換えて考え始めました。

 

学校では地球環境と開発経済というコースにいたんですけど、ある授業で「2040年 で地球は終わる」って書いてある環境問題の本を読んで大ショックを受けました。

大変だ、って。なんでこんなに地球が危ないのにみんな見て見ぬふりしているんだろうと焦っていました。

でも、気づいた人から何かやっていかなければいけないんじゃないか、と思って、「そうだ、地球を救おう」という人生初の夢がで きたのが、大学1年の夏過ぎですかね。」

 

 

――どのような行動を起こしましたか

 

 

「自分の中で「地球」の存在が大きくなる一方で、一度も飛行機にも乗ったこともないし、海外に行ったことがないな、と思って。

1年生の春休み、友人とバックパックでヨーロッパ5か 国を旅しました。

色々な人たちと出会って、変な人に連れて行かれそうになったり、お金をぼったくられたり、危ないこともあったけれど、その世界は自分が今までいた日常と全然違って、色々なものがリアルで新鮮でワクワクしました。

帰国後、よく人生相談をしてた古着屋の店長にその話をしたら、今度は違う形で 行ってみれば?と言われたのがきっかけで、たまたま本屋の立ち読みで見つけた海外ボランティア「国際ワークキャンプ」に、2年生の夏に参加するためにチェコへ飛んでいきました。

これが今の仕事に繋がる最初のきっかけになったと思います。

 

その頃から、漠然とNGOやボランティアの面白さに気付いて、将来はNGOの仕事に就きたいと思いました。

自分のいた経済ネットワーキング学科では、実はNGOなどで活躍できる人材を育成するコースだったんです。

たまたま自分がそこにいて、熱く生きたいという想いに本気で向き合ってくれる大人たちがいたというのも、今振り返ればすごい偶然だな、と。」

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2.「自然に生きる」

 

 

――就職活動への不安はありませんでしたか?

 

 

「当時NGOで食べていくのはまだまだ難しいと思っていて、周りが就職活動をしているぶん、不安は正直ありました。

3年生の夏は、ネパールに植林のボランティアに参加し、自然と人間の共生について学ぶこともあったんですけど、やっぱり就活への不安がぬぐえず、日本に帰った ら就活をしようかなと思いました。

でも、帰る前日にたまたま訪れたカトマンズ郊外にあるヒンドゥー寺院で火葬の場に遭遇して、ガンジス川の源流であるその 現場に座り一部始終見ていたら、人生で初めて人が燃える煙や臭いを感じて、それが数時間後には骨と灰になっていて、自分の吸っていた煙草の灰と変わらないことに気づいて。

知識としては当たり前なんですけど、人って何をしていても、いつかは亡くなり、誰かが火をつけたら灰になって土に還っていく。

あ、人(自分)って自然なんじゃん。自分は自然なんだから、自分がやりたいこと、生きたいことがあったら、自分の気持ちに自然に生きたらいいじゃんと感じたら、肩の 荷がすっと下りたんです。

決められた社会のレールや常識といった曖昧な不安を勝手にしょいこんでいた自分がいて、それに抗おうと悩んでいた自分がいて。それまでは社会に対する反抗心を着飾ったりして無理に格好つけていたけど、その時から、「自然でいいんだ」と気づきました。」

 

 

――やりがいを感じるのはどんな時ですか?

 

 

「3月に卒業してからは、お世話になっていたNICE(日本国際ワークキャンプセンター)という国際ボランティアNGOからの紹介で、タイのNGOでプロジェクトコーディネーターとして村落開発事業に携わり約3年間働きました。

その後、ドイツに渡り1年間現地のNGOで働いていました。日本を離れているうちに、日本が大好きになって、NICEに就職して4年 間東京で働きました。

そこで、「なにかしたい」という若者たちと若者の力を求めている地域を繋ぐ活動をしていったんです。

お互いまったく違うような様々な バックグラウンドを持つ人たちが、想いを語り合い共感することで繋がり、共感が形になり広がっていく。

そこからまた色々な人たちが出会い、イキイキとワク ワクしながら動いていく、そしてそこから何かが生まれる、という「共感から何かを生み出していく」ことにやりがいを感じます。」

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3.「地球を『つなぐ』」

 

 

――最大のピンチはどんな時ですか?

 

 

「2009年に福島県に家族で移住し、昭和村という小さな村で地域づくりの仕事をしていました。

そして、2011年 にあの東日本大震災が起きました。

震災のあと、家族と別れてしまって、悩み続けたことがありました。

いつも天命を感じながらがむしゃらにやってきていたん ですけど、この時は自分の天命を見失ってしまいそうになって。

でも、その後の大切な人との出会いで救われました。

改めてその時に人生の師匠に「天命を生き ろ」と言われた言葉は大きく、自分が人生で一生をかけてやりたいと思ったことが何であったか、もう一度見直すことができたんです。

自分の道だけをひたすら 走り続けるのも人生ですけど、そうじゃなくて、自分の道をありのままにシェアできる大切な人と毎日を日々幸せに生きて積み重ねていくスタイルでやっていき たいな、と最近は思うようになりました。」

 

 

――今後の「生きる」目標を教えてください

 

 

 

「最初は地球を「救う」って思っていたけど、今は、地域に寄り添って、向き合って、それをどういい形で次世代へ繋いで残していくか、が大切だと思うように なりました。

地球・地域に寄り添って、それを繋いでいくためのつなぎ役であればいいかな、と。

せっかく生きている一回しかない人生なので、自分自身、そし て「今」を生きる一人一人が存在意義を感じながら関わり合い、繋がりあえる生き方をしていきたい、そんな社会を創りたいです。

仕事面としては、地球を舞台 に地球規模から小さな農村でも活躍できるようなグローカルなコミュニティワーカーを増やしていくような人づくりにしたい。

今の職場でそういうことができる ので、まずは北海道函館からそんなチャレンジをやりたいです。」

第2回 小野雄紀さん

第2回輝く人インタビューは、CM音楽を始め、様々な音楽を手掛けられている作曲家の小野雄紀さんにお話を伺った。

冨手さんよりご紹介頂いた小野さんは、冨手さんによると、幼いころ「神童」と呼ばれていたという。そんな幼少期をどのように過ごしてきたのだろうか。

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1 「音楽一家」

 

 

――幼少期はどのように過ごしましたか。

 

 

「教育熱心な父のもとで、ピアノとサッカーをやっていました。

でも、ゲームとかも大好きで、普通の子供と変わらないですよ。

うちはファミコンを買ってもらえなかったんですけど、なぜかゲームの攻略本は買ってもらえたので、それをひたすら読んで頭の中で攻略するのが楽しかったですね。

ゲーム音楽はキャッチ ―な曲も多くて、友人の家で遊んだ時に一回聞いたら覚えられたり。

今考えると、著名な作曲家の方々が作っていた曲も多くて、そりゃー名曲多いですよね (笑)初めてお小遣いで買ったCDもゲーム音楽のものでした。

 

ピアノは、やった分だけ上達していくのが楽しかったです。

与えられた曲をクリアしていくのがゲームみたいな感覚で、興味のない曲も、先生にうまく乗せら れて弾いていました。

父が(ヤマハ)音楽教室を経営していたこともあって、母親がエレクトーンの先生、姉と弟もピアノと、いわゆる音楽一家で常に周りに音 楽があったんです。

子供の頃に濃密に教育された影響って絶対に大きいから、それは間違いなく受けていると思います。」

 

 

――CM音楽を手掛けるようになったきっかけはなんですか。

 

 

「母親と車に乗っている時、『雄紀はCM音楽やったらいいんじゃない?いろんな音楽が好きだし。』って言われたことがあったんですよね。

後から母親に聞 いたら全然覚えていなかったけど(笑)大学卒業してからはバイトをしながミュージシャンを目指してライブをやって過ごしていました。

 

今の仕事に出会ったきっかけは、広告制作会社に勤めている友人にたまたま声をかけてもらったことですね。

でも、明確にこれを仕事にしたいと思ったのは 25歳の時。

ニューヨークにいる友人が、CM音楽の作曲家を紹介してくれるというので、ささっと学生VISAを取って会いに行きました。

このフットワーク の軽さが良かったのかもしれませんね。アメリカでの経験は、間違いなく今の仕事のベースになっていますよ。

 

当時交際していて現在結婚10年目になる奥さんは、以前ニューヨークに住んでいたこともあって、『大変だけど、面白いし、成長できる街だから行ってきた ら?』って背中を押してくれたんですよね。

そんな彼女にもすごく感謝しています。こうして振り返ると、僕は本当に人に恵まれているなぁ、と思いますよ。

い つも誰かがターニングポイントになっていて助けてくれるんです。そんな周りの人々や環境にも感謝です。」

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2 「人との繋がりで生まれる作品」

 

 

――仕事のモットーや、やりがいを感じることはなんですか。

 

 

「この仕事がすごく自分に合っているなーと思います。

基本的に飽き性なんですけど、CM音楽って尺も短いし、製作期間も他のものに比べるとタイトだし、 なによりすごく刺激的で楽しいんです。

幅広くいろんな音楽を作らなきゃいけないのもあって、様々なジャンルの音楽を聴いたり、ライブをみたり、勉強も必要 だけど。好きなことなので全然苦じゃないです。

 

発注元の人が僕の作った曲に満足してくれたら、それが一番やりがいを感じる瞬間ですね。

あと、僕の作った曲を使ったCMを見て、家族が喜んでくれるのも 嬉しいです。

ただ、発注者がいて、作り手の僕がいて、相手の要求に対して自分らしさも注入したいので、そこのバランスは難しいですね。

 

僕は、人と人との間にすべてが生まれると思っているので、お互いが納得のいく曲を作るにはコミュニケーションがすごく大切だと思うんです。

だから、モッ トーは、人を大事にすること、相手が何を考えているかとか、何を求めているかとか、人のことを考えたり、思いやりを持つことかな。

 

あと、仲間5人で『kkzn(カケザン)』っていうクリエイティブコミュニティーを運営していて、年に2~3回、地方の優秀なクリエーターの方々とセッ ションするんですけど、こうして人と沢山会って話をすることで、なにかが生まれるんです。

人と人とのコミュニケーションがとても大切なんですね。」

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3 「共鳴」

 

 

――尊敬する人を教えてください。

 

 

「中高の頃に毎月ピアノの特別レッスンをしてくださった、ピアニストの有森博先生です。有森先生はすごくユニークな方で、ピアノの弾き方も型にはまって いなくて、いつも個性的な演奏をしてくれたんです。遅く弾く曲をすごく速く弾いたりとか、面白くて。

中学生くらいの時、いわゆるクラシックのルールが ちょっと窮屈に思えた時期に、有森先生の演奏を聴いて「音楽って自由なんだ」ということを教わりましたね。

 

あとは、父親です。体育教師になる夢があったそうですが、家の事情で家業を継いだ父をとても尊敬しています。地方で商売を続けていくことって、とっても大変なことだと思います。」

 

 

――小野さんにとって、「生きる」とは。

 

 

「お互いに影響を与えたり受けたりしながら、共鳴しあうこと、ではないかと思います。僕は人が好きなので、初めて会う人でも、まずは相手を受け入れて、 それからどんな人なのかなーと考えます。

もしかしたら共鳴できる周波数が広いのかもしれませんね。

人間て一人じゃ生きていけないから、いい影響も悪い影響 もある中で、お互い共鳴し合って生きていくことなんじゃないですかね。」

第1回 冨手要さん

プロローグ 「アニメ」

 

輝く人インタビュー第1回は、杉山の友人であり、カメラメーカーにエンジニアとして勤める冨手さんにお話を伺った。

冨手さんはほがらかな笑顔が印象的であり、夢や仕事については更に目を輝かせて熱い想いを語ってくださった。インタビューは、幼少期に好きだったアニメと今の仕事との意外なつながりの発見から始まる。

 

「アニメを信じることで自分に『限界』という壁を作らない。架空の世界だから本当はできないかもしれないけど、いまだにできないことはないように思え る。だから、エンジニアとしてこんなものを作りたいとか思うのは、アニメや映画から夢をもらってできていると思う。」

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1 「夢・目標・行動力」

 

 ――将来の夢ができたのはいつ頃ですか?

 

「(一般的な意味での)夢は、ちゃんと持っていないように思います。でも、目標なら沢山あります。目標はいついつまでに成し遂げたいと思うこと。夢はお ぼろげながら、叶わなくてもいいからああなりたい、こうなりたい、と自分の中でもっているもの。全部叶えたいから、夢ではなく目標だと思っています。」

 

 

――夢や目標を叶えるためにしたことはなんですか?

 

「大学院を修了して社会に出る時、私は今の会社のある特殊な部署に入るのが夢(目標)でした。でも、その部署に確実に入るための方法なんてありませんでした。私がその部署に入るためには、まず今の会社に入社して、会社の人事を説得する必要がありました。

 

会社の仕組み上、全ての人が希望した部署に配属されるという訳ではありません。だから、どんなに頑張っても確実にその部署に配属される保証はどこにもありませんでした。

 

それでも、私は今の会社から内定をもらった後、当時その研究所の所長が参加する学会を調べて直談判しに行きました。所長には「なんとか内定をもらったの で、〇〇の部署に入れてください」と言いました。所長からは「最終的に人事が決めることだから、どうなるかはわからないが掛け合ってみる。」と言ってくれ ました。結果的に、その所長の働きかけのおかげもあり、なんとかその部署に入ることができ、最初の夢(目標)を叶えることができました。」

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2 「あきらめない」

 

――仕事において大切にしていることはなんですか?

 

「一番大切なのは、あきらめないこと。仕事をやっていると何度もうまく行かない壁にぶつかります。でも、あきらめなければなんとかなるものなんです。いつも思うのは、「なんとかならないことはない」。なんとかならないっていう状況は、実はそう長くは続きません。

 

火事場の底力じゃないけど、あきらめないで頑張っていたら誰かが助けてくれたり、自分の中で閃きがあったり、そういうことで結構なんとかなってきました。だから、絶対にあきらめないことが大切。」

 

 

 ――生きる上での仕事の位置づけを教えてください。

 

「それは生きることに繋がると思うけど、仕事っていうのは、なにかを生み出すことだと思います。それはサービス業でも製造業でも同じで、今の僕にとっては生きることは、仕事をすることと、それによって得られた対価で自分の家族を養うことです。

 

人生という長い目で見ると、生きるっていうのはその時々で意味が違うと思います。35歳の僕にとって仕事とは、家族を養うことです。そのためならどんな 仕事だってする。ただ、そこで仕事をして対価をもらうだけじゃなくて、その仕事がちゃんと世の中に貢献することだったり、自分の娘に誇れる仕事であること が大事だと強く思っています。それは、自分の中でやりがいというものに大きく関係があると思うから。」

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3 「登り易い山を」

 

――尊敬する人を教えてください。

 

「たくさん尊敬する人がいますが、中でもMIT Media Labでも教えを受けたことがある石井裕先生です。当時、一番ショックを受けた言葉は「技術は陳腐化する」という言葉です。例えば、今ある分野で世界一の 技術であっても、数十年経てばそれは塗り替わってしまう。認めたくはないけれど、それは事実だと思います。

 

石井先生は「技術は陳腐化してもコンセプトや哲学は生き残るから、自分は百年後に残るもの(コンセプトや哲学)を作りたい」と仰っていました。」

 

 

――過去と現在でエンジニアとしての考え方に変化はありますか。

 

「私は昔、技術やモノを生み出せる人がすごく価値のある人と思っていました。だから、自分はエンジニアになる道を目指しました。

 

でも、最近になってそれは少し違うということに気付きました。今のIT進化はとても早くて、少し経てばすぐ古いものになってしまいます。だから、何も想いの込められていないものを生み出してもすぐに廃れてしまいます。

 

単に機能的に優れたモノを作るということではなく、時代や使う人が変わっても変わらない何かや、自分の想いを込めることが、とても大切だと考えるようになりました。」

 

 

――富手さんにとって、「生きる」とは。

 

「石井先生の言葉で『創山力』という言葉があります。これは誰も登ったことのない山の頂に登るには、山を創るところから始めろ、そのための力だ、という 意味です。僕は誰かがその「山」を創ることも大切だと思っていますが、それと同じくらい、その山の存在を世界中の人に発信できる力も重要なんじゃないかと 考えています。みんなが登らないと、実はその山に価値が生まれませんからね。石井先生は、自ら山を創って、さらにその発信力があります。

 

でも、凡人の僕はどちらかというと、みんなが登り難い山を登り易くする方法を考えるのが得意な人間なんじゃないかと自分のことを分析しています。だか ら、自分の得意分野を見極めた上で自分ができる最大限の努力をして、後世の人たちが山に登るためにその山を登り易くすることに貢献したいと考えています。

 

これって養育にも繋がっていると思います。山を登る過程でドロップアウトしても、登り方が変われば登れるようになるかもしれない。そんな風にいろいろな 登り方を多くの人たちに提案したり、新しい技術を開発することで、支援していけたらと思います。それをできたら一生続けていきたいです。」

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